小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

ゲームをするかのように

みなさん、こんばんわ。

 

何で見たか忘れてしまったけれど、このコロナ禍で、何かしたいという欲望や願望が生まれてこなくなる怖さ、みたいなのを語っている文を見た。

 

新型コロナウィルスが流行って様々なことに制限ができた。最初はそれでも、流行が収束したらあれしようこれしようが出てくる。しかしそれも1年半も制限が続いていくと、我慢することが当たり前になっていき、何かを望んでも叶わない、むしろ望むことがよくないのではないか、我慢できていない自分はダメなんじゃないかと自分を過度に律してしまい、最終的に何も望まない状態になってしまう恐れがある。その可能性の怖さ。

 

たしかに、今のコロナ禍の制限でできていないものをいつかできる日が来るとしても、それがいつかもわからない状態では中々ずっと望んでいることは難しいですよね。それだったらいっそ、我慢する行為を受け入れ、我慢している状況が普通なのだと信じ込んでしまった方が楽ではある。

 

これの怖さって、自分では気付かない内に我慢を受け入れてしまっている、自分の中の当たり前が勝手に入れ替わってしまっているところだよな。時間をかけて少しずつ変容していったものだから自分ではその変化には気付けない。気付いた時には手遅れだった、みたいなことだってあるよなと。

 

といってこの制限に慣れ親しまないやり方は、じゃあ自分のやりたい事をやりたいように、制限無視してやっていこう、ということでもないわけですよね。そこが難しい、というかややこしい。

 

大事なのは、欲望の火を絶やさないってことなのかな。制限や我慢はあっても、それで諦めてしまうのではなく、かといって欲望をずっと持ち続けようと努力するでもなし、適度に欲望を発散し、欲望を持てる状況を維持する、といいますか。例えばこのコロナ禍でお店でお酒が飲めないなら、お酒を飲むだけなら家でもできるし、人と飲むならオンライン飲みもあるし、美味しい料理と共にということならテイクアウトもある。お店の雰囲気がってことなら、部屋でキャンドル炊いて雰囲気出すとかもありかも。といってもこれはなんら根本的解決じゃないし、これまで色々な方がやっていることだ。でもだからってバカにはできないんじゃないのかなと。こうやって欲望を少し変容させて叶えてあげる、ようは叶えてあげることが大事で、それが次の欲望に繋がる。そうやって欲望を繋げていくゲームをするかのように、この制限下で自分の気持ちを保っていく。そういうのは大事だろうし、きっとこのコロナ禍以外でも大事なってくるんじゃないかなと、思ったりするのでした。