小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

今一度あの感覚を

みなさん、こんばんわ。

 

大学生の時から演劇を始め、かれこれ15年くらいやっている。最初はただ無我夢中というか、楽しいもんだなという軽い気持ちでやっていたけれど、ここまでやってくると、自分はなんで演劇をやっているのだろうと考えることが増えてきた。ちょくちょくこのブログにも書いているし。

 

なんで演劇をやっているのか、自分にとって演劇とは何なのか。都度都度考えては自分の中で答えを見つけ、それが正しいものかどうかわからないけど、とにかく自分では納得して、さぁまた演劇やっていくかと気持ち新たにやっている。

 

先日「池袋ポップアップ劇場」に出演した時、本番中のある瞬間に、なんだこの感覚と不思議に思う感覚を味わった。

ある場面で、自分のセリフと相手のセリフ、その間1秒か2秒の時間が、これまでの体感より長く、まるで時間が引き延ばされたかのようにゆっくり感じる瞬間があった。一瞬の出来事のはずなのに、別に周りも自分もスピードは変わっていないのに、その時間と時間の間にゆとりがあるのを感じた。

 

どうしてそう感じたのか。要因はどこにあるのか。そもそもそう感じることが正しいのか。わからない。ただ出来れば、今一度あの感覚を味わってみたいと思っている。

 

どうしてそう感じたのか。その要因はわからないけど、時間と時間の間にゆとりができたように、心にもゆとりができたことが大きいのかもしれないと考えた。

 

稽古を繰り返して、セリフを覚え動きを覚え、共演者と合わせて作品を身体に染み込ませ、等等、そうやって一通りのルートを通過した先に、ようやっと心に脚本に書かれていないことに触れるゆとりが出てくる。おんなじルートを何回も何回も通ることで、周りの風景や自分の心情に気を配る余裕がでてくる。道順は同じでも、その時々で見えてくる景色や感じるものはきっと違うはずだ。それが些細なものだったとしても、まるっきり同じってことはない。それは、決まりきった家から最寄り駅までの道のりだって、どこからどこまで同じ風景ってことはないし、そこを歩く自分の心持ちも日々違う。

ゆとりが出来ることで変化を感じられる。それは作品全体を通しても言えるし、もっと突っ込めば、セリフ一つ一つの間だって、動き一つ一つの間だって変化を見つけられるし、そこに気付くことでさらにゆとりが生まれ、時間をより細分化して認識できるようになるのかもしれない。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」みたいな感じかな。

 

僕はそのゆとりに行き着きたくて演劇をする、演劇をやる理由の一つがまたできた。それは、はじめて滑り台を滑った子供の、そのわくわくした気持ちが忘れられなくてもう一度上に登るというのに似ているかもしれない。