小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

弛み

みなさん、こんばんわ。

 

このコロナ禍で、アルバイト先の人以外とあまり会うことがなくなった。それまでも決して頻繁に人と会うタイプではなかったけれど、今よりは若干多かったと思う。それがコロナ禍でめっきりだ。

 

それでも、先週と今週に「池袋ポップアップ劇場」の出演があったので、稽古場では共演者と、本番では他の出演者さんやスタッフさんと会う機会があって、コロナ以前の生活といった具合だった。

 

人と会うことの何がいいかって、雑談ができることだなって思う。なんてことはない、ゴールの決められていないやり取りができるというのはいいものだ。どうも、メールやLINEの文章でのやり取りやzoomなどの画面越しのやり取りでは、円滑に事を進めるために余計なものが削がれがちだ。それはそれで大事なのだけど、案外なんてことないやり取りが後々に繋がったりするし、そのなんてことないやり取りって、人と人が直接会っていないと現れないものだったりする。

 

これはきっとずっと昔から言われていることだろうけれど、物事が便利になったり進化したりして、何かのゴールに辿り着く最短が更新されていく、果たしてそれが本当に正解なのだろうか。ゴールに向かうまでにあったであろう寄り道や脇道、たるみや緩みみたいな部分に、何か大事なものが潜んでいたりはしないだろうか。

AからBへと行く道のりで、少しの脇道Cを経ることで、実質的な成果はなかったとしても、目には見えない豊かさみたいなのが内側に生まれやしないだろうか。

 

時は金なり。時間は大事で、僕たちが意識せずとも時間は進んでいく。一分一秒取りこぼすのも惜しい。それでも、ぎちぎちに絞められた一分一秒に、ちょっと弛みを作るだけで、そこに向かって外から新しい何かが入り込んでくるのではないか。外からの影響。自分で自分を締め上げて、自分以外が付け入る余地をなくすのは、逆に自分の可能性を閉ざしてしまうことなのかもしれない。でもゆとりを作って、ゆとりに飛び込むことで、ようやっと自分以外を取り入れることができる。そこでやっと自分と自分以外の交わりが起こり、自分の知り得ない新たな自分に辿り着けるのかも。

 

だからね、あまり削ぐことに躍起にならず、一見無駄なものも取り入れる度量は必要なのかも。ただまぁ、余りにも無駄が溢れてしまったら、それはそれで問題だけども。