小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

安心を得るために

みなさん、こんばんわ。

 

なんだか最近気持ちがぐったりするなぁと思っている。別にせかせか忙しくしてるわけでもないし、何か嫌な出来事があったとかではない。夏バテか、といえば確かにそうな気もするけれど、なんだかそれだけじゃないなぁとも思っていた。それが今日ふと、あぁこういうことかなと思い至った。

どうやら僕は今、大きなエネルギーにあてられてしまっているみたいだ。

 

太陽のおっきなエネルギーによる夏の暑さでバテているし、新型コロナウィルスに関するこっちが正しいあっちが正しいの正しい論争にしても、その力強過ぎる言葉の熱量にやられてしまっている感がある。それらだけじゃない、何か絶対感を醸し出してくるものに疲れ果ててしまっているようなのだ。

 

夏の暑さはもう致し方ないし僕がどうこうできるわけではないので、とりあえずは暑さ対策をして凌ぐしかないと割り切れる。今年はもう、エアコンをいっぱい使ってやるんだと心に決めた。

 

でも、思想的なものというか、人対人のやり取りの中での何が正しい正しくないの部分では、もう少し声高にならずにはいられないものかと思ってしまう。もっと許容することはできないのだろうかと思ってしまう。

 

そういえば、最近見ている海外ドラマで、それは冷戦の時代のアメリカが舞台で、主人公の奥さんが核シェルターを買うっていうシーンがあった。別に核戦争になると100%思っているわけではないが、不安が漂う世の中の空気から、安心を得るために核シェルターを買う。

 

それを見て、その奥さんの気持ちがよくわかるなと思ってしまった。僕も今、安心できる何かがあったらそれにすがってしまいたいなと思う。絶対感を得られる何か、それを自分のものにしてしまいたい。

 

でもきっと、絶対とか、確固たるものこそ危うい。そんなものはこの世にないだろうし、そこを目指してゆくエネルギーは、いずれ暴走して自分が飲み込まれてしまう。

 

だからもっと許容していけたらいいんだろうなと思う。受け入れて咀嚼して。そしたら、なんかハッピーにならないかな。どうだろう。