小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

何を自分は固執していたのだろう

みなさん、こんばんわ。

 

なんだか最近、自分は自分以外によって成り立っているんだなぁと感じる。自分は周りからの影響があって生きれているんだなと強く感じる。

 

自分は一個人として自立した存在でありたいなと思っていて、そのために「自分とは」みたいな存在理由のようなものを常々自問自答している。でもいくら自問自答しても考えられる範囲は自分の範疇でしかなくて、だから毎回おんなじような答えに行きついてしまって、そのたびになんだかなぁと首をかしげたりしている。

 

でも最近、自分はどうやら自分に固執しすぎなんじゃないかなと思えてきた。

 

意識していたわけじゃないのだけれど、他人の意見や考えを、今はすっきり受け入れられているような気がする。今は少し時間にゆとりができて、それに伴って気持ちにもゆとりができている、そのおかげで周りの話を受け入れることができているようだ。

 

そうすると、何を自分は固執していたのだろうと思う。僕1人が考えることよりはるかに豊富な情報量があって、それに対して僕はどれだけ意固地になって吸収せずにいたのだろうか。

 

周りと相対して関わることで自分が浮かび上がってくる。他人にはその人ひとりひとりの人生経験があって、そこには僕が経験していない世界が山ほどあって、それを目の当たりにして吸収することで、僕の中の世界がより豊かになる。

 

こう書くと、自分以外をいいように利用しているみたくなるがそうではない。周りと自分を比べることで、同じ部分や違う部分がくっきりと輪郭を帯びて見えてくる。それによって自分のあり様が見えてくるということで、それは自然に起こることで恣意的なものではない。

 

ようは何が言いたいのかといえば、人は1人では生きていけない、周りとの関わり合いによって生かされているというのに、ようやく実感が伴うようになってきたということなのです。

そんなことを考える夜なのです。