小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

何を縁に

みなさん、こんばんわ。

 

ついこの間までは、何か列に並ぶ時に、「少しでもお詰め合わせの上お並びください」と言われていたのに、今は「1〜2mくらいの間隔を開けてお並びください」と言われる。ちょっと前とは逆の状況になっているというのはどうにも不思議な感じである。

 

今がコロナ禍だから「1〜2mくらいの間隔を開けてお並びください」と言われるわけで、それが落ち着けばまたもとの状態に戻るでしょう。それでも、一度考えが揺らいだことは、そのあとにもしっかりと影響を及ぼすことでしょう。

 

列は詰めて並ぶというのは、常識というほどかっちりしたものではなくても、暗黙の了解のように大抵の方々の脳裏に刻みこまれていたことでしょう。それは満員電車のぎゅうぎゅう詰めもそうですし。

 

前々より当たり前だと思っていたことも、それは絶対ではない。「少しでもお詰め合わせの上お並びください」も「1〜2mくらいの間隔を開けてお並びください」も相反することでありながら、両者ともスタンダードを取っている。そうであるならば、一つだけの絶対的なるものが存在しないとなるわけで、そこにあるのは「何かを反映しての当たり前」だけだ。

 

相対的な評価で世界が成り立つというのなら、そんな中で何を縁に立っていけばいいのかといえば、それは自分の中にある絶対的なものしかないのかなと思う。外に評価を委ねられないのであれば、その評価は自分の中から絞り出すしかない。自分なりのものさしというか、それによって世界を測り、自分なりのスタンダードを構築するしかない。

 

でも自分の中の基準も、時間が経てば揺らいでしまうことはある。そうなったら、外の世界の価値観に触れてネジを巻き直す。

 

自分の中の基準はあくまでも絶対的とはいえ色眼鏡でしかなくて、でもあとはどうその色眼鏡と付き合っていけるかが肝心なような気がする。

色眼鏡をかけているから見える景色に自負をもち、色眼鏡をかけているから色付いた世界に違和感をもつ。

 

そうやって、外も内も疑って、いやよりよいものさしを得るために前向きに考えて、そして最後は腹をくくって自分を信じて、それでなんとか胸張って立っていられる。

 

世の中は諸行無常、そんな中では信じられる自分で進んでいく。道に迷い壁にぶつかって、それでもなんとか一歩一歩、とかく足を出していく。それだけでもう立派なもんだ。あとはもう何も言うまい、運命は自分で引き受けるのだから、各々が各々を全うしていければいいじゃない。