小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

研がれすぎた言葉

みなさん、こんばんわ。

 

ネットを見ていたりSNSを見ていたりして、その強い言葉に辟易してしまうことがあったりする。そんな時、ありませんか。

 

悲しいニュースであったり、目を覆いたくなるような残酷なニュースを見て、それに心揺さぶられて不安定になるってのはそれはあることで。でもそうじゃなくて、何かの物事に対する一個人の発言に、なんでそんなこと言うんだようと、ちょっとわからなくて混乱してしまうことがある。どうしてそこまで力強く自分を信じて発言できるのだろう。不思議でならない。たしかに、自分にはある程度自信を持っていた方がいいと思うし、そんな自分から発せられる言葉はそれなりに真のあるものであると思うのだけど、それでも少しも自分を疑わずにいられることってできるのかな。ただ僕にはそう見えてるだけで、その人たちの中では沢山の逡巡があっての言葉なのかな。なんにしても、研がれすぎた言葉が目立つなぁと思ってしまう。

 

あと、ニュースに映るやり取りだったりツイッターでのやり取りだったりで、会話になってない、議論になっていものが多くて、それを見ていても疲れるなぁってなる。ただ自分の意見をぶつけ合ってるだけで、そりゃもう議論じゃなく戦闘になってるぜみたいの、なんか多いよなぁ。「論破」って言葉が前に流行ったけど、破るための話し合いって悲しくないか。

議論てさ、Aの意見とBの意見があったとして、それで話し合ってCというちょうどいいところに行き着く、みたいなものだと思うのだ。相手の話をちゃんと聞いてさ、それを踏まえて自分の意見を言ってくもんじゃないか。なのに、相手の意見を聞かずに、聞いても否定して自分の意見を突き通す。それで相手が黙れば悦に入ったり、あいつはわかっていないのだと自分の優位を誇示しようとする。それはとても悲しいなと思うのだ。

 

そういうのには触れないようにすればいいと思うのだけど、つい目に入ってしまうのよな。とにかく自分はそうあらないよう努めようと思うのでした。