小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

追いついて

みなさん、こんにちわ。

 

最近時間があるので、昔読んで気にいっている小説を再度読み直している。読み直してみたら、なぜその本を気に入ったのかその理由がより明確になっているのではないかと思ったからだ。

 

何冊か読み直してみて、確かに明確になった部分もあるけれど、それ以上に考え込んでしまう部分が多かった。

 

気付けば自分の年齢が、読んでいる小説の登場人物の年齢と同じくらいになってきた。お兄さんやお姉さんだと思っていた彼ら彼女らが、気付けばお友達のような感覚になっている。最初に読んだ時は、歳上の登場人物の言動に大人らしさを感じ、自分もいつか同じ年齢になった時に同じような振る舞いを出来るのだろうかと思っていたけれど、果たしてその年齢になった今どう成長できているのかはよくわからない。それでも同じ年齢になったことで、彼ら彼女らの考えていることがしっくりとくるようにはなってきている。

 

ただそれは、自分の中で嬉しいことであるのと同時に少し物悲しいことでもある。読んでいた当初は、登場人物たちの考えに理解が及ばないところがあって、そこが憧れに直結していた。彼ら彼女らは僕ににとっての先生のような存在であった。しかし歳を重ねたことで考えの幅も広がり、登場人物たちの考えを、すべてとはいかないまでも理解できるようになってきた。そうすると、その登場人物たちが一気に級友になって先生という柱をなくしてしまったような感覚になる。なんだかそれは、ずっと探し求めていた宝物を見つけてしまった時に感じるであろう達成感と喪失感を同時に味わっているようであった。

 

この、嬉しいのに悲しい、みたいな感覚に僕は考え込まされてしまったのだ。

 

憧れは、追いつけないからこそ憧れであり、憧れ続けられているということは、その追いつけない距離をしっかり感じられているということだ。そして、前を走ってくれている人がいる、その安心感は憧れと共に感じることでもある。

それが、前を走る人に追いついてしまった時、今まで抱いていた憧れは質を変え、一緒にあった安心感はどこかにいってしまう。また同じような安心感を感じるためには、自分より先に行っている人への憧れを感じなくてはとなる。ちょうど僕はその過渡期にいることを、自分の中にある不安定さを、小説を読み直していて感じたのでした。

ただ今、時間はしっかりとある。今は自分の不安定さを見つめる期間としてはぴったりな気がする。小説読んで、自分の不安定さに向き合っていいこう。