小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

何をもってつまらないか

みなさん、こんばんわ。

 

随分と昔のことなのに、案外しっかりと覚えてることってある。僕にとってそれは小学5年生の時のある授業だ。

 

それは国語の授業。「大造じいさんとガン」というお話をあつかった時だ。そのお話をグループに分かれてお芝居にするというもの。1カ月くらい時間をかけて、自分たちで一から作っていく。芝居なんてどんなもんかわからない小学生の僕たちが、ああでもないこうでもないと話し合いながら試行錯誤をしながら作っていく。最初作っていたものは、オーソドックスな作り方だった気がする。でも途中から、より物語にそったものをとした結果、だいぶ物静かで動きの少ないものとなった。僕としてはそれが物足りなく感じていた。それでも腐らずに頑張りはした。なんてたって、僕は主役、大造じいさん役だったから笑

そして本番当日。みんなでの見せ合いの日。自分たちの芝居が終わった後僕は、つまらなくてすみませんと謝った。滞りなく本番はできたけれど、やっぱりどうしても演出?に納得がいかなかったから。僕は純粋に謝った。そうしたところ、先生にぴしゃりと怒られた。自分がつまらないと感じた時点でそれはつまらいものになってしまう。それは、見る人にも一緒に作る人にも失礼だよと。

怒られて、僕はハッとした。僕は自分のことしか考えていなかった。周りに対しての想像力が足りてなかった。真摯に謝ればそれで万事OKだと思っていた。でもそうじゃない。それはやらなくてはならない目の前のことから逃げていただけだったのだ。何か良くないなと思う部分が少しでもあるのなら、それを嘆いていても意味はなくて、良くなるように努力する必要があるのだ。それが自分のためでありみんなのためになる。

 

小学生のその時に言われたことの大事さを、今しみじみと感じている。

お芝居は正解がなくて、果たして自分たちは満足なものが作れているのかと不安はどうしても付き纏う。それでも、自分を卑下してしまってはどうしようもない。それは周りに失礼であり、自分を貶める行為だ。

 

そうしたらもう、良いものを作るためには頑張るしかないのだ。少なくとも自分が納得する部分までは。

これからも僕は、自分が関わったものを納得した形で終えられるようにしたい。