小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

わからないがわかる

みなさん、こんばんわ。

 

最近のブログに写真を載せていなかったので、彩りのために最初に載せておこう。

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近所のミモザ。春だねぇ。

 

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わからないことをわからないなりに受け入れるってのは大事だなと思ったりする。わからないことを否定するでもなく肯定するでもなく、正しいか間違いかで区別することなく、そのままを受け入れるということ、そういうのが大事だなと。物事って、白黒で表せない、グレーというかその淡いの部分が大事でありそのものの本質だったりすると思うんですよね。

 

大学の時に、自分の中の常識を揺さぶられた出来事がある。僕の思考の仕方は、その出来事以前と以後に分けられるんじゃないか、そう思えるほどなことでした。

 

それはフランス哲学の授業。モンテスキューくらいから近現代のフランス哲学者を、歴史順に毎授業1人ピックアップして紹介し、その哲学的考えを先生がわかりやすく噛み砕いて教えてくれる、というものだった。

ある哲学者の回、先生が説明をしていく中で、その哲学について深く考え込んでしまった。この考え方はこうだね、でもこういう考えもできるよねとあちこちに思考を飛ばした結果、先生は「わからない。わからないから次の授業ももう一回考えたい」と言った。そうしてシラバスとは変わり、その哲学者は続けて次にも登壇することとなった。

 

僕はこの、「わからない」というのが衝撃だった。

先生がわからないというのもだし、勉学においてわからないなんてことがあることもだし、そもそも答えというものが厳密にはないということも衝撃だった。そんなことが許されるのか、と。

 

結果として次の授業でも、わからないことはわからないままだった。先生がこの1週間で考えたことを説明し、一応の答えのようなものを話して終わった。

 

僕はそれまで、世の中に説明できないものなんてないとどこかで思っていた。わからないことも、知識をつければ答えを出せるのだと。でも案外そうじゃないみたいだぞ。答えを出せるのはもしかしたらこの世のほんの一部分なのかもしれない。むしろ、答えが明確にならないというのがある意味では答えなのかもしれない。

 

僕はそれ以来、焦って答えを出すことをしないように心がけるようになった。何かわからない部分があるとして、そのわからない部分こそが思考のスタート地点だと注意深く見つめようと思うようになった。そうしたら、わからないということが楽しいものに思えてくるし、わからないことだらけのこの世界ももっと面白く感じられる、気がするのだ。