小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

耕したり狩りしたり、それもこれも生きるため

みなさん、こんばんわ。

 

日本人はよく農耕民族だと言われる。弥生時代に稲作が始まって定着し、それ以来日本人は農耕民族的思考をしてきたというわけだ。

 

日頃生活していて、自分がそんな農耕民族的思考をしていると考える時はあるだろうか。僕は特に意識したことがない。そもそも自分は稲作や何か作物を育てたことがないし、実家も農家ではない。無縁とまではいかないけれど、小さい頃から農業をやるための思考には直では触れてきていない。でも今日ある話を聞いて、なるほど自分は自然と農耕民族的思考をしていたなぁと思った。

 

農耕民族的思考はつまり、農業をすることから形成された思考方法だ。種を植え、水をやり環境を整え、作物が育つのを待つ。時間をかけて育てた作物を刈り取りそこでようやく対価を得て、そして冬を我慢し春を待ち焦がれる。つまり、先の利益のために我慢をする我慢ができる思考ということですね。で、この先の利益のために今を我慢する、これ無意識のうちにやってるなぁと思うし、今は変わってきていても、僕が子供の頃は日本全体がその空気感だったなぁと思った。簡単に例を出せば、早いうちに辛い受験勉強を頑張り、いい高校ないしは中学校に行き、そしていい大学に行き、いい会社に行き安定を得る…この先の利益のために前段階で我慢して苦労する、案外当たり前だと思っていたことが言われてみれば農耕民族的思考なのだという。もはや無意識レベルで農耕民族的思考をしていたのだなと思うと、自分が操られていたんじゃないかという虚しさを感じてしまう。

 

昨今、流れとしてはそういう「今」を大事にしない考えはよくないんじゃないかというふうになっているけれど、良い悪いじゃなく、農耕民族的空気感は中々根強く残っていますよね。

でもね、弥生時代に稲作が始まったとして、その前の縄文時代では日本人も狩りをしていたわけですよ。狩猟民族だったわけですよ。てことは、僕らの記憶の中にもその狩猟民族的思考が残っているわけですよ。

それがね、こんだけ農耕民族的思考が幅を利かせているのは、上のまとめる人たちからしたらやり易いからなんだろうな。空気読んでとか、みんな一緒にってのは、まとまるには大事なことだもんな。

 

今日のブログで何が書きたかったかといいますと、別に農耕民族的思考を否定したい訳でもないし、狩猟民族的思考を崇めたい訳でもなくて、無意識的でなく意識的に自分を判断しなくてはと思ったということなのです。

 

農耕民族的思考にハイハイと従うでなく、狩猟民族的思考をむやみやたらに有難がるでもなく、自覚的にその二つの思考を捉え、良いとこ取りしていきたいなと思ったということなのです。

僕はのほほんとした頭をしていてそれはそれでと思っているので、でも、たまには楽しいことに時間を忘れて全力になるくらいのはしゃぎっぷりが必要だなと、そう思ったのでした。