小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

認識論

みなさん、こんばんわ。

 

こんな夜中の更新です。何を書こうかなと考えていたらこの時間です。全然思い付かなくて…

こういう時に、今日は何をしました、どこ行きました、何を食べました、みたいに日記的に一日の振り返りを書けばいいのだろうけれど、そういう日常を書くのが苦手なんだよなぁ…日常をうまく言葉にできないんだよなぁ…

 

そうやってお風呂で悩んでいたらふと、認識論のことと、自分が企画したThe Parkの「シュレディンガーの家と哲学的な家族たち」という公演のことを思い出した。

 

シュレディンガーの家と哲学的な家族たち」は、The Parkの2回目の公演で、タイトルの通りシュレディンガーの猫が関係してくる話だ。この脚本を書いてもらうにあたり、脚本家のアリソン・グレイスさんに、認識論について書いて欲しいとお願いした。当時僕は、論法ということではないにしても、認識についてよく考えていた。僕たちは、実際は存在しているのに、それを見なかったり考えなかったりすることであたかも存在しないかのように思考してしまったりする。逆に、存在しないのに、想像や伝聞などで実在するかのように錯覚してしまうことも。この事がどうにも不思議で面白いなと思っていたのだ。

 

そういえば脳について書かれた本に、人の脳は欲しているもの興味のあるもの気になっているものしか認識しないと書いてあった。脳は非常に単純で合理的で、例え目に情報として入ってきても、それが欲しているものでなければ認識できないようになっているという。例えば何かのキャラクターを好きになったとすると、そのキャラクターのグッズとかがやたら目に入ってきたりする。まるで急にそのキャラクターにまつわるものが出現したかのように。でも実際はもとからあったもので、ただ自分が見ているようで見えていなかっただけの事なのである。

 

その事を考えていると、今ってその認識のズレが色々なところで起こっていると思う。各々が目にしているものはおんなじでも、自分の色眼鏡で認識できたりできなかったりが起こる。しかも、自分がどう認識できているかの真の部分てわからなくて、全てを理解できていると無意識に錯覚しちゃう。そりゃもうすれ違いも起こるわな。

 

こういう時って、正しく疑うってことが大事なんだろうなと思う。目の前のものも自分の脳も、等しく疑う。そして考える。そのワンクッションが、実は大事なのかなと思う。実際、一呼吸おいた方が心にゆとりができるだろうしね。