小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

あんなところにケーキ屋か

みなさん、こんにちわ。

 

先ほど少し散歩で外に出た。若干汗ばむ陽気ではあるけれど、その分時折吹く風が心地よく、なんとも穏やかで気持ちのいい散歩だった。5月になって、気づけば緑も濃くなり、色とりどりの花々が咲き乱れている。マスク越しでも感じる芳しい花の匂いに、春の訪れの高揚感を感じる。この上ない日常だ。

 

歩いていて、木々の緑や花の艶やかさに目がいくのは、きっと今自分が欲している情報だからなのだなということをぼんやりと考えた。

自然と目がいくというのは、自然と脳が欲しているということだ。そういえば前に本で、人は見たいようにものを見ている、といったような事を読んだ。色々例はあるけれど一つに、何かの物事に興味を持つと、それに関係するものが目につくようになるという。上記でいえば、僕が無意識にでも木々や花々といった自然を求めていてからこそ、木々の青々しさや花の艶やかさに目がいったということだ。たしかに他にも、子供が出てくる本を読んだあとはやたらと街中の子供が目についたり、ケーキを食べたいと思った後にいつもあるいている通りにケーキ屋さんをみつけたりといったことはある。そういうことってありますよね。

 

これって脳の便利なところだなと思う反面、気をつけなくちゃいけないところだなとも思う。無意識に自分が欲している情報を得ることができるというのは、それが能動的な時は有効だけれど、受動的になんとはなしに受け入れている場合は、その無意識の選択に知らないうちに取り込まれてしまう可能性がある。と言うのも、能動的な場合なら自らが望んだ結果なのだと受け入れていいと思うが、受動的な場合は無意識に取り入れた情報をあたかも自分の意思と勘違いして受け入れてしまう可能性があると思うのだ。

例として適していない気はするが例えば、ケーキの事を考えていたら知らないうちにケーキ屋さんが目につくようになるのと、やたらとケーキ屋さんが目について自分は今ケーキが食べたいのだと考えるのは違うよねっていう。これがケーキレベルのことならいいけれど、もっと何か良くない事だとしたら怖い。しかもその本人にとっては、自ら望んで仕入れた情報なのだからと良くないものと考えないことが多いと思われる。

 

だからどうするってことでもないのだけれど、脳というのは案外単純で、そして自分は案外騙されやすいという意識を持つのは重要なのかなと。あまり自分を過信してはいけないんだろうなと思うのです。