小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

当たり前が当たり前でなくなった時

みなさん、こんばんわ。

 

本日は「スポットライト 世紀のスクープ」を見ました。これは、アメリカはボストンの日刊新聞「ボストン・グローブ」紙の「スポットライト」チームによる、ボストンとその周辺地域で蔓延していたカトリック司祭による性的虐待事件の報道を描いた、実話を元にした映画です。公開は2015年、その頃から気になってはいたのだけれど、気付けばようやっと見るに至りました。

 

実話が元なので、あっと驚くようなどんでん返しはない。それでも2時間越えのこの映画をじっと見てしまう魅力がありました。その魅力は、主役たち新聞記者のジャーナリズムのカッコ良さ。カトリック司祭の事件をネタにするのはある意味タブーであり触れないのが暗黙の了解となっているなか、彼らは正義を信じて自分たちの立場が危うくなるのも顧みずに取材をしていく。映画の中ではそれが派手ではなく淡々と描かれていく。そのジャーナリストとは何かを体現している様は、新聞や報道というものに疎い自分までもを感化させる力強さがありました。

 

驚かされるのはそのキリスト教の影響力の凄さだろう。日本では想像ができない、宗教が生活に根付いている様。ただ単に悪いことしているから訴えようとはならない複雑さ。性的虐待というひどい事件でも、それを公表すれば動揺し傷つく信者の方がもの凄く多く、その為に地域の繋がりなどを考え隠蔽体質ができてしまっていること。

 

映画の中で、「サバイバー」という言葉が出てくる。性的虐待をうけて、その影響で普通の日常を送れなくなるほど精神にダメージを受けてしまう人は多い。「サバイバー」は、それでも日常生活を送れるほどまで回復した人或いは、性的虐待を受けても自殺せずに文字通り生き抜いた人のことを言う。

信頼していた神父からの性的虐待は、小さな子供たちにとってはその後の人生にまで影響するほどの爪痕を残してしまうのだ。

 

当たり前のものの裏にある悪意に触れた時、人間どうしたって目を逸らしなかったことにしようと努めてしまいがちだ。しかしこの映画の彼らは、自分たちの人生を棒に振るかもしれない中でも自分たちの正義を貫いた。その坦々とした信念のすごさ、それを目の当たりにした映画なのでした。