小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

人生は喜劇

みなさん、こんばんわ。

 

本日は、ウディ・アレン監督の「カフェ・ソサエティ」を見ました。

2016年公開の映画。その時から見たいなと思いつつ、結局今になってしまったという。

ウディ・アレンの作品ってなんか気になるんですよね。僕の中での彼の作品って、人生の悲喜交交を、ちょっと遠目から眺めることで喜劇に仕立て、まぁ人生悪いもんじゃないなとまとめあげるものってイメージがあります。今回見た「カフェ・ソサエティ」も、身も蓋もなく言ってしまえばそのような内容でした。

 

舞台は1930年代のアメリカ。世界恐慌により、それまで栄華を誇っていたアメリカは勢いが衰え、なんとか回復しようともがいていた時代。ジェシー・アイゼンバーグ(「ソーシャル・ネットワーク」で有名)演じるボビーが、ハリウッドで大物エージェントをしている叔父のフィルをたよりにニューヨークからハリウッドに訪れるところから物語は始まる。

 

上にも書きましたように、時代は大恐慌の後。回復はしてきているとはいえ経済は低迷している中、ハリウッドは裏腹に、大スターは豪華絢爛な豪邸に住み、プール付きの庭で優雅にパーティーを繰り広げる。そんな華やかなハリウッドが前半の舞台であり、後半は、こちらもエンパイアーステートビルやロックフェラーセンターが建設されるなどの高層ビルが次々に建造される勢いのあるニューヨークが舞台。

 

そんな華やかな世界で主人公のボビーは、恋をし、失恋をし、仕事で成功したり、家族の問題でやきもきしたりと、映画の物語としてはよくある出来事を経験していく。そう、この「カフェ・ソサエティ」、物語の要素だけを取り出せばよくあるありきたりなストーリーをしている。でもだからと言ってそれがつまらないわけではなく、むしろそのありきたりだからいいのだと思えてしまう何かがあるのだ。

 

そう、この作品が見せてくれるのは、1人1人の人生はありきたりだとしても、それが交わっていくことでそこにはドラマが生まれ、それが第三者の観客からすれば可笑しみがありコメディ的に映るのだということだろう。

この作品にの登場人物の要素、平凡な家族、ギャング、ユダヤ人、美女、タフ、スター、スノッブ共産主義、そういったものが交じりあうとズレが生じて、そこに笑いが生まれるのだということを教えてくれる。

 

内容に触れず、漠然としたことしか書いていなくてすみません。話をまとめるのが下手くそなのと、それより何より見てほしいなというので、内容には深く触れません。

 

ただ最後に言いたいのは、これは映画らしい映画なのだということ。

この作品に描かれている華やかさは、その時代の一部分を切り取ったに過ぎず、もしかしたらほんのひと時の夢幻かもしれない。いつか夢から醒めなくてはいけない時がくるだろう。それでも、そこにあった夢は無かったことになるわけじゃない。夢は消えても、夢があった事実は消えない。その夢の中での出来事やそこで感じた想いはなくならないし、なくしてはならないのだ。

僕らも映画を見て、その世界に想いを馳せる。その1時間半から2時間ばかしは、虚構で空虚な夢物語を体験しているに過ぎない。それでも、その時間に感じた気持ちは本物で、それを否定する事はならない。

 

「カフェ・ソサエティ」を見ることで、夢見ることに前向きになれる気がします。

もしよければ見てみてくださいまし。はっきりとしたメリハリはないですが、見終わったあとに、夢も現実も悪くないなと思わせてくれますよ。