小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

この宇宙のどこかに

みなさん、こんばんわ。

 

僕、一時期バス運転手になりたいと思っていた。

24歳くらいの時、普通に社会人として働いていた時だ。

 

普通まぁこういうのって小さい頃の夢だったりすると思うんですけど、僕はなぜか遅れてこの考えに至った。むしろ、小さい頃はあまりバスには興味なかった。車は好きだったけどのめり込むほどじゃないし、バスはその自動車の一種類の認識でしかなかった。それにそんなにバスに乗る機会もなかったし。

 

それが社会人になって、静岡県御殿場市で働いている時にバス通勤するようになって意識が変わった。

なんとも思っていなかったバスの運転手に憧れのようなものを抱くようになったのは、そのドライビングテクニックが凄かったからだ。

僕が乗っていたバスのルートは、細い道や細かなカーブが多くて、一見するとバスが通るのは難しそうなルートだった。それなのにそのバスは、こともなげにスイスイ進んでいく。当たり前といえば当たり前のことだとは思うんだけど、その当たり前さがかっこよくて。運転手さんは、別に自分のドライビングテクニックを誇ったり見せびらかすことはない。ただ淡々と仕事として運転をこなしているだけだ。その潔い清々しさに、なんとも心惹かれたのだ。

 

あと、バスって日常に溶け込んでいるものだと思う。日常の循環にあるものというか、当たり前に社会に組み込まれているものというか。そういう日常の循環の中に生きてみたいと思ったのも、バスの運転手になりたいなと考えた一要因だ。

 

御殿場を離れて東京に戻ってきた今は、バスの運転手になろうとは考えていない。でもふと、もし運転手になっていたら自分はどんな人生を歩んでいたのだろうか、そんなことは考えたりする。

 

もしこの世が多元宇宙だとしたら、どこかのパラレルワールドではバスの運転手になっている小太刀がいるのかもしれない。今はもうバスの運転手になりたいとは思わないけど、もし運転手になった自分を見れるとするなら、その生活は覗いてみたいなって思う。運転手になってる自分を見て、じゃあ役者を辞めて僕も運転手になろうとは思わないだろう。でも、自分の人生の中にあったかもしれない、自分が選び取らなかった可能性に生きている自分がいるんだと考えると、なんだかその自分を誇りに思える気がする。