余白
みなさん、こんばんわ。
ほぼ日刊イトイ新聞の読みもので、糸井重里さんと谷川俊太郎さんの対談がある。「詩人の気持ち。」
こちら。
この中で谷川さんが、少ない言葉で詩が書けないかをやっていると話している。
『なんだかこの頃、あまりにも言葉が多すぎるからね、「少し」で、なにかできないかと思って。』ということらしい。
この間見た関ジャムで、音楽プロデューサーのYaffleさん特集があって、その中で彼が、今っぽさを大事にしていて、その今っぽさにはスピーカーが鳴る音が大事で、その音を際立たせるために音を削いでいく、というような事を話していた。アメリカでは、ビリー・アイリッシュの「Bad Guy」のように音数少ない流れになっていると。
音楽の世界でも谷川さんの言葉のことでも、いかに少なくするか、という流れになっていて、もしかしたらこれは芸術的分野に限らず、世の中的な流れとしてそちらへのシフトがあったりするのかな。この情報が溢れ、なんでもすぐに手に入れられる時代にあって、逆に目に見えない余白に込められたものの価値のあり方、みたいのが考えられるようになったということか。
だとしたら演劇はどうなのだろう。
演劇にも要素を削いだ形態のものは昔からあって、ではそれこそが今新しいということなのか。舞台でいえば、このコロナ禍でオンライン的アプローチが増えたことで、そもそもの大前提であったであろう舞台すら削がれてしまったのだから、こっから先は何が削がれたって「あり」なわけだ。
となって、じゃあ自分が好きなものは何かと考えれば、情報量盛り込みの作品だったりする。見るにしたってやるにしたって。でもその込められた情報をより的確に提示するために、これまで気づいていなかった風穴を開けなくはならないってことはあるかもしれない。余白を作ることで際立つものがある。
そんなことを考えて、今年の自分のポイントは、余白について考えることなのかもと思った。演劇に限らず、生活の余白。
なんだか2021年のテーマが決まった気がする。