小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

ぜんぜんぴんとこない

みなさん、こんばんわ。

 

僕はあまり記憶力がよくない。随分前からそうだ。でもここ数年、さらにぼんやりしてきたように思う。人の名前が抜けていく、ちょっと前に考えていたことも今は覚えていない、昔の出来事はどんどん遠くの彼方へと行ってしまう。

 

台詞覚えもいい方ではない。いつも四苦八苦しながらどうにかこうにか覚えている。毎回、よくもまぁこの小さな頭で記憶してるよと、自分で自分にびっくりしてしまう。もしかしたら、頭のメモリーを台詞に割いているから、普段の諸々が抜け落ちてしまうのか。そんなことはないか。

 

まさかそれ忘れる?!みたいな、少し前までは一生忘れないだろうと思っていた事柄が、いざ思い出そうとした時にぜんぜんぴんとこないことがあるくせに、それなんで覚えてるの…?っていう、その当時もぴんときてないし、今考えてもなんでだろうってことをいつまでもしっかり覚えていることってあったりする。

 

僕は高校時代が全体的にもやがかかっているような感じでよく覚えていない笑 でもこれだけは忘れない。家庭科の先生が言った言葉だ。「イタリアのパスタ料理は、小麦粉の味しかしない」

なぜにこれを覚えている自分!いや知らんしって感じじゃないか。でもまぁ当時の自分としては衝撃だったんでしょうね、「本番の味はそうなのか」と妙に納得したんだな。

 

一度記憶したものは本来忘れないらしい。忘れているのではなく頭の中のタンスにしまわれて、取り出したい時に取り出すといというシステム。でもタンスのどこにしまったか、それを忘れてしまったりする。そんな中にあって、いつでも掴めるようにとタンスのわかりやすい引き出しにしまっているのもある。なぜそれを覚えてると自分に問いかけてみたりする。そうすると見えてくるのは、思いがけない自分のキャラクターだ。それが好きなのか、そこが譲れないポイントかと、自分の無意識の部分が垣間見れて、自分というものに一歩近づけた気がして嬉し楽しい。

 

記憶も自分でコントロールしているようで、逆にその記憶に振り回されたりする。自分のことがわかっているようで意外にわかっていない。それはちょっと残念な気もするけれど、自分で自分がどんなやつか探っていく楽しみがあるのだと考えれば、それは別に微笑ましいことだよなと。

だから僕は今日も、自分ってどんなやつか、自分に付かず離れずで探っていこうと思う。その前にちっとは、自分の記憶と格闘して、記憶力を上げていこう。