小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

オアシスを探して

みなさん、こんばんわ。

 

今日は稽古休みだったので本番に向けて髪を切りにいった。随分頭が軽くなって気持ちがいい。

 

髪を切ってもらっていてふと思ったのは、美容院とか床屋とか、髪を切ることを初めて商売にした人ってすごいなぁということ。

 

髪を切るのって変な話、家でもできる。家族に切ってもらえるし、自分で切ることだってできる。

 

それが商売になるということはきっと、その地域で髪を切るのが上手い人がいて、その知り合いの人が切ってもらいにいったりしてその延長線上でじゃあお礼にとお金の受け渡しが発生しそして商売になったのだと思う。

それがその地域だけの話なら別に商売として広がらないだろうけれど、きっと複数の地域で同じようなことが起こってあれよあれよと商売として定着したのだろう。

 

何か生活に必要な物の売買ではなく、誰だってやろうと思えばできる技術が商品となる。髪を切る行為以外にだってそういうことはあるけれど、何にしても自分の腕でお金を稼ぐというのはすごいことだ。

 

それが商売として成り立つには需要と供給があったからだ。髪を切ることでいえば、髪を切って欲しい需要と髪を上手く切れる人の供給。文字にすればわかりやすいけれど、ここに需要と供給の関係性があるのをみつけだすのは難しい。美容院や床屋が一般的でなければ、髪を切って欲しい需要も別に人に切ってもらわなくてもと思ってしまうし、髪を切る技術の供給も別に特段突出したものではないと人様に向けて発信することはないだろう。でも誰かがこの見えなかった需要と供給に目をつけ、あるいは勝手に現れたことでそこに商売が一つ生まれた。

 

今でこそ一般的な髪を切る仕事も、一昔前なら仕事として認知されていなかったかもしれない。そんな仕事にならないものを仕事として成り立たせる、その着眼点は他のものにも応用がきくし、それを見つけられるかどうかが人生をより楽しくする。

 

一見商売ではないとところに商売を見出すのは、砂漠でオアシスを見つけるようなものだ。そこにこそ勝機があって、しかし見えるのは蜃気楼かもしれなくて、辿り着くのは一筋縄ではいかない。

 

価値観の変革が起きてる今、そのオアシスの場所もまた変わってきている。今までと同じところを探しても干からびるだけかもしれない。新たなオアシスを見つけるための嗅覚、それを養わなくてはなのかもしれない。しかしまぁ、どうやったら養えるか、それはどうにもわからないけれど。