小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

そことあそこをつなぐもの

みなさん、こんばんわ。

 

あまり舞台を見ない方に、自分芝居をやっているんですよと言うと、劇団四季ですか?キャラメルボックスですか等と、小劇場ではなく有名な団体の名前が出てくることが多い。そりゃそうだ、小劇場のあの団体が有名で、あの役者がすごくってと言ったところで、馴染みのない人からしたらなんのことやらって感じだろう。

 

最近、デザインに関するコンペティションの展示を手伝っていて、なるほどこういうことが起こるのかと思ったことがある。

 

その展示は、少しニッチなデザインの展示だった。展示する側としては、デザインを広域に捉えて作品を作り、そして実際に賞が与えられその受賞作品が展示してあるのだけれど、見る側としてはデザインというものをもっと限定的に考えて見るので、なぜこの作品とこの作品が同列なのかみたいな疑問が出ていて、それによって展示する側と見る側でのデザインに関する捉え方の差異が浮き彫りになっていた。

そして作り手の方は、そういう捉え方の違いが生まれることを想定せずにただデザインに実直になり、自分たちと違う意見に対して無頓着であり無関心でいるように見えたのでした。

 

作り手と受け手の感じ方の違い。デザインという漠然としたものを扱う以上その違うが生じるのは致し方ないことではある。それでも、そこに無自覚ではいけないよなと思うのです。

 

演劇も同じだと思う。

演劇が芸術か娯楽かという問題はさて置き、演劇が多くの方に馴染みがないものなのは覆しようのない事実だ。それは悲しいことではなく、そうなのだというただの現実である。

だからといって、それに悲観し自棄になることはなくて、むしろ殻にこもって周りとの差異に鈍感になるのはよくない。その逆もそうで、馴染みがないのだから特別、選ばれた人にしかわからないといったように差異を声高に叫ぶのも違う。馴染みがない部分は出発点にしなくてはいけないと思う。あなたと私の違い、それはもう仕方なく違うけれど、そこを繋ぐ架け橋、共通言語を探すことはできるはずなのだ。

 

演劇は特別ではない。かと言って日常でもない。そのどっちか寄りの真ん中辺りにある。

そこで楽しむ僕らとあなたを繋ぐ共通言語、それが見つかればどれだけ胸踊るだろうか。