小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

アマゾンと日本、見方の違い

みなさん、こんばんわ。

 

昨日のブログの続き、というわけではないけれど、脳の事を知ると面白いことがたくさんある。思ったよりも単純な仕組みだったり、思いの外複雑な構造だったり、まだまだ全貌が解明されてないように脳は色々な面を持ち合わせていてユーモラスだ。

 

今僕らは、不自然を感じないままに「時間」が流れていると思っている。過去から未来へ。でもこれって突き詰めると確かめようがなかったりしますよね。果たして時は常に一方通行に流れているのか、そもそも時間とは、みたいな。少なくとも時間の流れの速さが場所によって変わるのは相対性理論によって言われているわけです。そして僕らが時間の流れを信じているのは、今までの「記憶」という蓄積があるからだ。自分の中にある「記憶」によって時は流れていると勝手に思っていて(暴論だけど)、それをみんながみんなすんなりと受け入れているから、みんなの認識の集合体としての世界でも時が一方に流れている、とみなされている、とも言える。

ではその「記憶」とは何かと言えば、それは「言葉」となる。「言葉」を知ることで物事を細分化していき、明瞭で奥行きのある「記憶」を作ってゆく。だから子供には、今という意識が強くて過去未来の概念が薄いのだという。過去はそれが1日前であれ数年前であれ「昨日」で、未来に関してもまた同じ「明日」に集約される。まだそこを分ける記憶を持ち合わせていないから。

 

ところでみなさま、ピダハン族という人々をご存知でしょうか。ブラジルはアマゾン川の近くに住んでいる人々です。彼らの話すピダハン語には特徴があって、過去や未来を表す言葉がないそうなのです(過去形や未来形といったものがない)。そのため彼らは、未来に怯えることもなく過去を憂うこともなく、今現在に生きているという。そのため生活も少しうちらとは違っていて、決まった時間に狩りをしたりご飯を食べたりするのでなく、それをしようと思った時、それが真夜中であろうとも、狩りに出かけ、捕まえた獲物はその時に全て平らげる。今この時にしか生きていない。

そして彼らには、左右は概念や色を表す言葉がない。左右は、アマゾン川の上流か下流かで表される、明暗の違いの言葉はあれど色は、身近な木々や果物に似ているかどうかで表される。どこまでも自分たちの目で見たものしか信じないのだ(だから、過去や未来といった見えないものは無いのと同じなのだ)

 

このような人々が、今もこの世界にはいるのだと思うと、僕らが考えていることや信じていることは絶対ではないのだと教えられている気がするのだ。

 

それでも僕らはこの不完全でユーモラスな脳を使って必死に考え想像する。もう考えずにはいられない。となると、もっともっと脳のことを知りたくなってくるのよね。