気持ちの上でセンチメンタルジャーニー
みなさん、こんばんわ。
家から駅までの道すがらに、しっかりとした向日葵が植わっている。太陽に向かってピンと伸びたその様は、自分こそが夏の象徴であると誇示しているように見えた。
つい先日までその勇ましい姿を見せていたのに、今日朝見たら、葉や花は枯れ、花の部分がクタッと折れて下を向いてしまっていた。その姿はひっそりとして弱々しく、もう夏が終わってしまうことを謝っているようにも見える。
8月も下旬。暑さもだいぶやわらぎ、肌感覚でもいよいよ夏の終わりを感じる。
たまに香る蚊取り線香の匂いも、夏の訪れを喚起させるウキウキ感ではなく、終わりの儚さを連想させる。
それでもまだ、秋の訪れは見えない。夏の終わりであっても秋ではない。夏と秋の間。微妙で不安定な時期。
最近になって気付いたのだけれど、僕はこの不安定な時期がどうやら好きみたいだ。
窓から入る風がどこか涼やかだったり、不安定な天気で雨がざっと降る感じとか、漂う空気の中に、夏が過ぎ去ってしまうことの物悲しさがある気がして、それをふと感じる瞬間が好きだ。
もう戻らない夏。暑くて辛かったけれど、それでも楽しかったなぁなんて感慨にふける。海やプールや花火、今年も夏らしいことはしなかった。だけど夏が過ぎる物悲しさは感じる。心の奥を、慎ましやかにそっと、それでいて鋭くキュッとつままれるような、そんな物悲しさ。
他の季節の終わりにはあまり物悲しさを感じないのに、夏の終わりだけはやたらセンチメンタルになるのは何故だろう。
今ちょうど舞台と舞台の間でぽっかり時間がある。だからこの夏終わりの不安定さをじっくり感じている。
歯車をきりきりしめて正していくのも大事だけれど、あっちこっちと気持ちの揺らぎに身も任せてみるのもまた一興な気もする。