小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

沈黙、人間らしさ

みなさん、こんばんわ。

 

最近なんだかもやもやすることがありまして。 

それは物事というよりも風潮といいますか、昨今の流れ、みたいなものでどうすることもできないものなのですが、その流れの中にいたり側から見ていたりするとすごくやり切れない気持ちになるのです。

 

そのもやもやはなんなのだろうか。なんでもやもやするのだろう。もやもやの原因ってなんだろう。そんなことをうだうだ考えているとさらにもやもやしてくる。もやもやスパイラルである。

 

しかしある時、そのもやもやにパッと光明が差した。それは、ある言葉と、その言葉にまつわる話を読んで。その言葉は「沈黙」

 

それは、糸井重里さんが昔書いたコラムに書いてあった。そのコラムは、糸井さんが2008年の終わりに書いたもので、詩人であり評論家である吉本隆明さんとの話でインパクトを受けた出来事について書いたものだった。 

そのインパクトを受けたものが「沈黙」。言葉の根本的な部分、人間の幹となる部分は「沈黙」である、と。

 

言葉は道具であるけれど武器にもなる。言葉をよく知りうまく扱える人がそうでない人の上に立つことができる。言葉があるからこそ格差が生まれ、しかしだからこそこの社会は成り立っているとも言える。ではこの言葉ありきの世界において、言葉を巧みに扱えない人、言葉にならない言葉を抱えている人はどうしたらいいのか。その答え、人らしさ、その人らしさ、それが「沈黙」なのではないか。言葉はオマケであり枝葉であり、その幹たる部分が沈黙であるのではなかろうか。自分の中にある言葉になる前のことば、口のなかでむにゃむにゃはっしているようなもの。それが沈黙である。そう吉本さんは言うのである。

 

これを読んで、はっと視界がクリアになった気がした。僕がもやもやしていたのはその言葉の攻撃性に対してであった。そしてそのことばにできないもやもやこそが、僕の中にある沈黙だったのだ。

 

沈黙。何かを好きな、言葉にはならないけれど好きな気持ち。その理由はわからないけれどどうしてもそうだという気持ち。何かを見た時に感じた言葉にならない感動。なぜ僕は今涙が溢れるのだろう、その時湧き上がった不思議な気持ち。それはもう沈黙。

 

僕はずっと今まで、その言葉にならないことばを、どうにか言葉にしないといけないと思っていた。言葉にしなければそれは無いのと同じだと、必死に言葉を探した。何かに対して感じた気持ち、その揺れ動きに何かしら理由をつけようとしてきた。でもそれは果たして全部が全部必要なことだったのだろうか。沈黙を沈黙のまま受け入れて、口の中でころころ転がして味わうことも大事だったのかもしれない。そう思った。

 

これは芝居でもそうかもしれない。

特に今回の駄目なたすいちは。

 

駄目なたすいち。正直何が面白くて楽しいのか説明できない。無理やりやれば答えることはできる気がする。でもそれは野暮だなと感じてしまうし、説明すればするほどほんとうの面白さから遠ざかってしまう気がする。だからもう観て欲しい、お客様の感じるままに観て欲しいと投げやりになってしまうところがある。

 

でももしかしたらそれは、駄目なたすいちの作品が「沈黙」の上に成り立つ作品だからなのかもしれない。

 

山岡くんの書く脚本は雄弁だ。めっちゃんの演出はわかりやすく視覚的に楽しい。でもそれが合わさった世界を作り上げるには、役者たちがいくら言葉を尽くしても足りないのだと思う。脚本を読んで、めっちゃんの演出を聞いて、相手の役者の演技を見て、稽古場の空気感を感じて、そしてその時に湧き上がる自分の中の楽しいと感じる気持ちを、じっくりたっぷり味わうことではじめて、駄目なたすいちの作品は出来上がるのだと思う。

 

駄目なたすいちを観たら、きっと言葉にならないわくわくが生まれると思います。それをどうか存分に味わってみてください。きっと楽しい沈黙が待っていることでしょう。