小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

あらゆるところに、神

みなさん、こんばんわ。

 

科学者の人たちが、理論を突き詰めて突き詰めていった先に神の存在を感じる話が好きだ。

 

これはかなりニュアンスな話で、そんな事聞いたことあるな発進なので、いやいやそりゃ違うでしょって部分は多々あるかと思いますが、どうか大目に見ていただけたらと思います。

 

科学者の人たちが、あらゆる方面からこの世界の法則を解明していこうとする。まだまだ明確になっていない部分は多々あれど、それでも日に日に世界は明確になっていき、世界の成り立ちを表す方程式が導き出されている。

 

しかし、その方程式が発見され解かれていけば解かれていくほど、ではこの方程式はだれが作りだしたのだろうかという考えに行き着くのは、しごく当然の流れだと思う。

 

方程式があり、それがしっかり解けるということは、そこにはしっかりとした秩序があるということだ。秩序が秩序を作り、そして何不自由なくこの世界は動いていく。では、その秩序はいったい誰が生み出したのだろうか。

 

科学が進歩して、この宇宙のはじまり、ビッグバンの時のことまで考えを巡らせられるようになって(ビッグバンがあったかなかっかは少し置いておいて)、この世は何の意思でもなく、ただの化学反応の結果出来上がり今に至るのだと言い切れなくはない。

でもじゃあその化学反応はどうして起こったのか。偶然? じゃあ偶然ってなんだ。そもそも偶然という概念が生まれるのはどういうことなのだ。なんて考えると、どうしたって神あるいは説明できない何かの存在が、ちらっとでも頭に浮かんでしまうんじゃないかなと思うのです。

 

その、ちらっとでも頭に浮かんだ、いつもならあり得ないと切り捨てしまうその考え、それを無下にせずありのまま受け入れるってのは大事な気がするんです。科学者が神さまの存在を感じるのも、そういうことなんじゃないかなと。

 

神さまの存在はどうやっても証明することはできない。証明できないにしても、その漠然とした説明のしようがない圧倒的な何かを、圧倒的な何かのまんま受け入れてみるってのは随分大事な気がするのです。

 

何も小難しいことではなく、例えば美しい風景を見た時に、その言い様もない美しさを感じ心震わせることは、同時にその美しさの圧倒的さに何か得体の知れない大きな存在を感じているってことなんじゃないかなと思うのです。

 

何も神を信じろと言いたいわけではないのです。むしろ僕は、宗教的に何かを信じているとかはありません。

ただ、だからこそこう思うのかもしれませんが、世の中のありとあらゆるものの裏に見える圧倒的な何か、その何かの足跡みたいなものはありのまま受け入れていいんじゃないかと。その方が、世の中がなんだか面白楽しく見えてくる、気がする。

 

科学者でさえ時にはその存在を考えてしまう神、その説明できない圧倒的な何かの感覚に、時には身を委ねてしまうのもまた一興、そんなことを考えるのです。