小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

あなたの無駄がぼくの宝物

みなさんこんばんわ。

 

最近、なんだか釈然としないなぁもやもやするなぁと思っている事がある。

それは、「無駄」ってことに敏感な人多くないか、ということ。

コスパとか断捨離とか、きっとそれ以外にもあるだろうけれど、そういったものが多くの人に浸透して、無駄=よくないもの、みたいな風潮が広がっているなと感じるのです。

でも、果たして「無駄」ってそんなにわるいものなんでしょうか。

 

ここからは僕の想像であり、勝手なイメージでしかないのだけれど、昔はもう少し無駄と緩やかな繋がりがあったように思う。そんなに毛嫌いすることもなく、まぁなんだかいやだなぁとは思いつつも、あったらあったで仕方ないかと割り切って、或いは諦めて無駄と付き合っていた気がする。それがここ数年、無駄が出てくるやいなや、親の仇といわんばかりに排除されていく傾向にある、気がする。

はてさてこの無駄との付き合い方には、いったい何があって違いが出てきたのか。それは、科学が発達して色々な事が明瞭になってきたことが要因だろうし、そしてネットが発達して、その明瞭になった事象が簡単に広まるようになったからなのかなと思う。

昔はそこに無駄があっても、なんだか無駄だなぁでもなんで無駄なのだろうかと、その無駄の原因がわからないことが多かった。そもそもそれが無駄かどうかも定かでなかったり。でも科学の発達で、「これこれこういう理由で無駄」だとわかると、それは一気に排除の対象になってしまう。例えば、新幹線ができて目的地までの移動時間が短くなったことで、今までは景色を楽しんだりおしゃべりしたりトランプしたりしていたその長い移動時間が、たちまちいらないものとして切り取られてしまうのだ。それはそれでいい事に違いない。新幹線の例でいけば、目的地に早く着くことで、いままで移動にかけていた時間をその目的地で使うことができる。でも果たして、その長くかかっていた移動で過ごした時間は全てが無駄と切り捨てられるものなのだろうか。そこで食べた駅弁や窓からの景色を見ながらの会話は、必ずしも無駄の一言で片付けられるものではないと思う。

 

色々なことがくっきりはっきりしてくる昨今、物事へダイレクトにスピーディーに辿り着くことが求められている。たしかにその潮流において、無駄は邪魔でしかないだろう。無駄なく進むことで、最短距離でゴールにたどり着けるのだから。でも、何が無駄で何が無駄じゃないかって、後々になってみないとわからないと思うんですよね。一見無駄だなと思ったものが後で役立ったり、これは必要だろと思ったものが案外そうじゃなかったり。未来を予知できないこの世の中で、いま辿っている道のりが正しいかどうかなんてわからないのだ。

 

そう、だからね、無駄っていうその一言だけで、いろんな可能性を切り捨てちゃいけないなと思うのです。むしろぱっと見無駄に見えるものにこそ、人生の面白みがあると思うのです。それは、鈍行から見える抜群の景色だったり、車内でのたわいもない会話だったり。

 

無駄か無駄じゃないかで判断せず、面白いかそうでないかで判断する、そう思考を変換させられたらいいよなと。で、何を面白いと思うかはもう直感しかないと思っていて、直感が経験則から成り立つというのなら(そう言われたりしている)、どれだけ無駄を経験できるかなのかもしれない。無駄の中にも本当に無駄ってのはあるからね笑

 

ふーむ、無駄無駄書き過ぎてるな、これ笑

何が言いたいかといいますと、これは無駄なのかそうじゃないのかと目くじら立てて考えたりしない方が人生ハッピーだし、そんなゆとりをみんなが持っていたら、世の中うまいこといくんじゃないかな、なんて、そんなことでした。