小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

一行を数ページにする技術の習得

みなさん、こんばんは。

 

ほぼ日の今日のダーリンで、作文の事が書いてあった。内容の一部分ではあるけれど、作文を書くのが好きではなかったというようなことが書いてあった。自分も作文が好きじゃなかったので、コピーライターである糸井重里さんにもそんな時代があったのかと勝手に親近感を抱いてしまった。

 

作文は大概好きじゃなかったけれど、特に好きじゃなかったのは読書感想文。あの、夏休みの宿題の定番のやつ。みなさん、あれ好きでした? 僕は本当にあれが苦手で、なんでやらなあかんのじゃとぶーたれていましたよ、当時。今でも上手く付き合える気がしないなぁ読書感想文とは。

 

そもそも文章を書くのが苦手だったのでやりたくたくなかったのですが、それ以上に、なんで人様に向けて感想を書かなければならないのかと思っていた。本を読んだ感想は自分の中に留めておくものじゃないのか。それを文章にすることに何の意味があるのだろう…そう思っていたのでした。あと単純に、小学生の時って面白いかつまらないかくらいしか感想ってない気がするんだよなぁ。暴論かな。面白いとかつまらないの理由、なぜそう思ったのかを明確にすることが大事ってことなのかもしれないけれど、それを小学生に求めるのは酷じゃないかな。違うかな。

 

今でこそこーやってブログを書いているけれど、この歳になっても文章を書くのは得意じゃない。小、中、高、大ときてずっと得意じゃなくきた。それなのに今ブログを続けられているのは、正解を出さなくていいからだ。こうしなくちゃいけない、これを書かなくちゃいけないがないから好きに書ける。答えを出さなくていい(何が答えかもわからないけれど)というのは気が楽だ。

 

あの時書くのが嫌だったのは、正解を出さなくちゃいけないからだった。いや、違うか、正解を出させようとしているのが透けて見えるのが、子供ながらに釈然としなかったからかも。何故無邪気にやらせといて、知らず知らずのうちにレールを敷くのか。もっと教えて欲しかったのかもしれない。なんでこれをやるのかを、先生の言葉で。

 

今でも読書感想文は苦手だ。でも、あの頃と違って、感じたものを言語化するっていうのは役者にとって必要になってくる。避けては通れない。こういうのって、巡り巡ってやってくるのね。