小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

どうやったって自分はそこにいるから

みなさん、こんばんは。

 

日々のよしなしごとっていうとどうしても外せないのがやはり演劇のことですね。

 

役者をやってるので、演劇はどうしたって日常なのですよね。ただ今絶賛稽古中ですし。でも、あまりにも日常過ぎて当たり前過ぎて、ブログに書くことじゃないのかな、なんて考えたりしちゃったり。

でも、そういうのこそこのブログに書けばいいんですよね。

 

さて、何を書こうかな。

今やっている稽古の事を書くのもいいけれど、それよりも、日頃僕がどんな感じに芝居をしているかを書いてみようかな。

 

僕は、演劇の学校に行ったり、専門的な勉強をしたわくじゃなく、大学の演劇サークルから始めての独学タイプなので、これといった流派やメソッドを持っているわけじゃありません。だから基本、面白ければなんでもいいやというか、お客様に楽しんでいただけるならどんな方法でもいいやと、半ば暴力的な姿勢でお芝居しています。

 

そんな特定の主義を持たない僕ですが、演じる上で大事にしていることが一つありまして、それが、自分をどれだけなくして演じられるか、ということです。

 

自分をなくすって、自分はそこにいるのだから究極的に言えば不可能なんだけど、そのなくすっていう行為というか姿勢が大事な気がしていて。だって、何かを演じる時って、自分以外を演じることがほとんどなのだから、小太刀のままだったら演じられないと思うんですよね。小太刀の範疇で演じていたらその範疇からでることはできなくて、それはもう小太刀じゃんっていう。特に僕が所属する劇団のたすいちでは人外を演じることがままあるので、小太刀という人間のままじゃ太刀打ちできないわけですよ。僕、人外じゃないから。

 

この自分をなくすってのは、役になりきるってのともまた違います。僕は憑依型俳優じゃないので、役になりきるってことができないですし。

イメージでいうと、自分を空の容器に近づけて、そこに役を取り込む、みたいな感覚かも。役に入ってきてもらう、みたいな。その入ってきやすくする為に、自分をなくす、からっぽにするってのが大事だと思ってるわけです。

 

でも、僕はどこまでいっても僕なので、絶対にからっぽにできるわけないんですよね。からっぽに近づけて役を取り込むけれど、何処かしら何かしら突っかかるところがあって。でもその突っかかる部分というのが見逃しちゃいけない重要なポイントだと考えています。

例えば、セリフを発する時に言いにくかったりしっくりこないところがあったとしたら、それはその役と自分の似ていない部分であり、なくしきれない自分そのものであると言えるわけですね。でもそここそが、自分と役の間を取り持つ重要なファクターとなると思うのです。

自分をなくそうなくそう、役を取り込もう取り込もうとした時に、どうしても消しきれない、取り込みきれない部分こそ、その役をその人がやる理由になり、その役の個性となると(なったらいいなと)思っているのです。

 

ここまで書いて、この話に付随することでもう一つ大事にしていることがあるのを思い出しました。でもそれはまた次の機会にでも。

それではここらで締めましょ〜

 

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(稽古を頑張っている小太刀)