小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

「縛り」が欲しいのかな

みなさん、こんばんわ。

 

ふと、自分は縛られていたいのかなと感じる。これだけが書くとなんかよくない感じだな。縛られていたいというか、「縛り」が欲しいのかな、ということである。

 

できれば自由に放牧されていたい。あれやこれやと決めつけられるのは別段嬉しくないし求めていない。でも、外部からの縛りは欲しくないが、自分の中での自分だけの「縛り」、「ルール」みたいなのは作りがちだし、無意識に欲しているところがあるみたいだ。しかもその「ルール」は、実生活を目に見える形で向上するものというわけではなくて、自己満足の範囲の、そここだわるの?!みたいなことだったりする。

 

例えば制服のような。僕の中には、普段着を制服化したい欲求が定期的に湧き上がってくる。その都度、じゃあこの服とこの服で制服としようかなんて妄想したりする。

でも、制服化した方が服選びが楽だから、という理由でこういうことを考えているわけではない。制服化することでの制限によって自分が何を感じるのだろうか、どう生活が変わってくるのだろうか、その影響について興味があったりするのだ。

定期的にその欲求が出てくるなら、じゃあやったらいいじゃないかとなる。でも実際やってない。なぜか。頭の中で考えて満足しちゃうからだ。

 

「縛り」が欲しいと思って、実際にこんな「縛り」を考えるけれど、考えているうちに、それと相反する考えがむくむく湧き上がってきて、そちらも魅力的だなとなってしまう。そして結局別に「縛り」「ルール」を設けずに終わることが多い。

 

だからなんだという話であるが、そうやって自分の中で妄想することが楽しいのだろう。「縛り」「ルール」を求めながら、それと反対の自由も欲する。元来人間とはそういうものな気はしているし、そんなふらふら定まらない自分が結構気に入っている。

 

結局、考えは元に戻るというだけの話ではある。ただその割り切れない自分ていうのが、「あっ、自分は縛られたいのか」という思考から出発して浮き彫りになるというのが、なんとも面白いなと思ったのでした。