小太刀賢のアーティチョーク茹でました

役者・小太刀賢が、日記のような週記のような、日々のよしなしごとをそこはかとなく書きつくるブログです

難儀な体やなぁ

みなさん、こんばんわ。

 

先日までやっていた「キズツクキカイ」、それの裏話というか、こんな感じで作品を作っていたのだという個人的な話しを今度ツイキャスでしようかなと考えている。需要あるかな? とにかく近々やろうと思いますので、日時が決まり次第ツイートします。気にかけてくださいましたら。

 

さて今日は、そのツイキャスでは話さない内容を書こうかなと。

 

今回の作品はタイトル通り「傷」がテーマの一部としてあります。僕、昔っからちょっとした傷なら慣れてるところがあって、何故かっていうとアレルギーで肌がやられやすく、気を抜くと引っ掻き傷だらけの体になっちゃうからで、だから小さい頃から傷をよく目にしてたんですよね。傷って身近なものだった。

 

といっても作品で書かれていた傷は身体的というか精神的なものについてなのだけど。目には見えない傷、自分の気付かない内に心は傷ついているのだぞという、そういう話。

 

僕の肌もですね、見えない傷、ストレスみたいなのに左右されやすくて、精神的にやられていくと肌荒れが酷くなる。

 

目に見えない傷ってまぁ見えないわけだから、ほっといてしまいがちだ。単純に気付かないってこともあるけれど、それだけじゃなく、いやいや自分は傷ついていないんだと強がって自分の傷を見て見ぬ振りをしてしまったりする。

 

僕もそういう傾向があって、傷ついたことに鈍感になってしまっているのだけど、それでも実際に傷ついてはいるわけで、そして体というのはなんとも素直なので、気付くと僕の場合は肌が荒れて傷ついている。その傷を見て、ああ自分はストレスがあるんだな精神的に傷ついてるんだなを実感する。

 

そんなわけで、自分の心の傷には鈍感だけれど、その心の傷によって現れる身体的な傷によって自分の心の傷の有り様を知ることは出来ている。だからどこか心の傷について自覚的になっているつもりでいるんだけど果たしてどうか。目に見えていることでわかった気になってしまっているんじゃないか、そんな気もしないでもないのだ。むしろ心の奥底にある根深い傷は無意識に溶け込んでしまっていて気付けないんじゃないか。

 

そう考えると、キズミという存在は優しさなのかもと思えてきてしまう。いちいち傷つけてくるのは嫌になるけど、「君は今傷ついたんだよ」と教えてくれるのはありがたい部分もあるのかも。

 

全部が全部拾えてないだろうが、心の傷が具現化して体の傷となる体をしている僕。難儀な体やなぁと思っていたが、この体質は僕にとってのキズミなのかもしれないと思うと少し前向きになれる気もする。モノは考えようってことか。

 

唱がキズミと出会ったことで前に進めたように、傷ついたり傷そのものをどう捉えるかってのは大事なことだ。

僕は今回の公演を経て、自分の体の難儀な体質に前向きに向き合った気がしている。芝居とは関係ないところだけどね。

 

そんな個人的な話。